memo
「面影」あるいは「永遠」そして「私達としての」写真
素晴らしい写真に出会ったときの名状しがたい感動の正体は一体何だろうと思う。写真に写っているものは撮影者にとっては現実の出来事でも、見るものにとってはイリュージョンでしかない。それは絵画を見ることとは違ったものだと思う。
写っているのは、行ったことのない場所、出会ったことも今後おそらく死ぬまで会うことない人々の顔なのに「ここに居たことがある」「この人を知っていたのかもしれない」という錯覚のようなものを感じることがある。それでも、ああっと前のめりになったその一瞬間、その感覚は正体を掴めぬまま霞んでしまう。「何かの記憶」は私にふわりとした暖かいものや躍動する何かの体感だけが残る。
おそらくそれは感情移入とか共感といった、想像力の産物ではない。「記憶の記憶」といったものが心も身体も震わせているのだ。
それは「私」が現在の自分にいたる系統樹を一瞬に遡って、ご先祖様のさらに奥の「私達」に出会うようなことだろうか?
写真はそれを呼び覚ましてくれる。
写真というものは出来事(景色)の時間を固定して小さな一瞬を「永遠」にするものといえる。人は写真によって無数の「永遠」と「私達」に出会っているのではないだろうか?
「余白×」「与白○」?
仕事はロゴデザインから始めた。創刊の企画書にあった「心の旅」という言葉に触れて、たちまち良寬和尚が降りてきた。手持ちの良寬の文字からトレースした。この時点で紙面の空気ができたように思う。
「空気」の次は「地」をつくる。それはフォーマットということばになるのだろうが、容器としての機能は不要である。写真もテキストも定位置に固定されて満たされてしまうような容れ物ではいけないと考えたのだ。読者が立ち寄る場所が必要だと思った。それを「余白」とも言いたくはない。「余白」は、あまった(あまらせた)場で図像を引き立てるためや目休めだけにあるのではない。紙面には読者が自分自身を表出する場が必要なのではないだろうか。
余白づくりは表現の一部ではあるが、別の側面としては読者の紙面への積極的な向かい方をつくることも必要だし、それは可能なのではと思う。
表紙(抜粋)
記事扉(抜粋)
記事(抜粋)