プログラム
●memo 「演劇組織 夜の樹」の主宰者で劇作家・俳優の和田周さんに出会ったのが1995年。それから毎年の公演チラシを楽しくデザインさせていただいていました。
残念ながら、2020年4月末に故人となりました。私にとっては人生の、ものづくりの師ともいうべき人だったので、このページは永久保存にします。
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夜の樹の芝居を私の思う一言で言わせてもらうと、「リアル」という言葉が浮かんできます。でもそれは物語の精密な描写ということではありません。その舞台には一貫したストーリーはなく、簡素で飾り気のない装置や外連味のない演出は、抽象的といってもいいと思います。脈絡の見えにくい場が次々と現れては消えて、役名も男1.2.・・、女1.2.・・。複数の場に番号を変えて登場します。名前を奪われて、錯綜した時間と空間を行ったり来たりする俳優達は、その複雑で寄る辺ない空間に必死に生き場を求める男女として、段々装いを脱ぎ捨て、芝居の内実から自力で立ち上がろうとしてくるように見えてきます。俳優が、◎●さんという架空の人生をなぞるのではなく、自分自身としてどんどん裸になってゆく感じがするのです。そうなると、それまで一つのフィクションを覗きみていたこちらも慌てます。出来事の当事者になったような気持ちになって、他人事のはずが自分事にすり変わってしまう。丁度そのころ芝居は突然幕を下ろしてしまうのです。俳優達は忽然と姿を消してしまう。また別の場所で生きるんだなという予感を残して・・・。劇場を出た後の街の姿が、名前と地図を失った何処ともない「生き直しの場所」として、私の足下で不規則な回転をしているように感じてしまいます。自分は誰だろう。今の自分は「リアル」な自分なのだろうか?・・・と。
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夏の初めにふいに届く、分厚い台本を元にチラシのデザイン案を考えるのですが、実際の公演を見ると「あぁ、今年もだめなチラシだった。申し訳ないな」と試行錯誤の数年を過ごしました。その後、『実際の芝居より先にチラシはまかれてしまうのだから、本番前に劇場の外で、自分流の[夜の樹]の一幕を紙の上で上演してしまおう!』と、腹をくくった時からとても楽に取り組めるようになりました。それはこちらが勝手に楽になっただけで、相変わらず不出来、的外れなチラシを納品しつづけているのは変わりません。ごめんなさい。夜の樹のみなさん。と、頭を下げなければなりません。
興味のある方は下記へアクセスしてください。
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以下 公演パンフレットに書かせていただいた文章です。
「身投げ」
和田周氏の芝居から感じることは、「妙に色っぽい」である。但し、便宜上そうしただけで上手い言葉は見つかっていない。「色気」NO。「エロチック」NO。私の貧しいボキャブラリーからは探し当てることが出来ないで居る。私が捕まれている、夜の樹の「何か」なのだ。
舞台の上で女と男が尋常ならざる振る舞いを繰り広げるのだから、それだけで充分色っぽいじゃないか。なんて当たり前の解釈では身も蓋もない。
夜の樹に登場する男女は、肉体派ではないし、情熱的な愛語もない。男と女の出会いにも再会にも、親和的なものが感じられない。二人の間にはいつも暗くて大きな隔てがある。今にも飛びかからんとする男も、まずは見えない何かに跳ね返され滑稽な格闘を繰り返す。女も届かぬ言葉を見送りながら、からからに乾いた喉から塩辛い濁点だらけの言葉がもれて、それはあらぬ方向に滑り落ちていく。不毛である。煩悩まみれ(?)の不毛の愛。愁嘆場。うん色っぽい。……でも違う。
和田氏は、格闘に疲れ、行き場を失った二人に彼岸行きの美しい小舟は用意しない。徹底的に向き合わせるのだ。向き合った二人が相手の暗闇に身を投げる事を求めるのだ。飛び込んだ先に何があるのか、虚しくすれ違うのか、また再会できるのか保証付きではない。だが、勇気を持って飛び込めば、そこは茫漠とした無明の闇ではないだろう。その闇の中でまた生き直そうよ。小さな明かりを灯そうよ。と。
和田氏は優しいのだ。その勇気が高まるまで静かに待っている。「さあ、みんな、この暗がりに飛び込もうじゃないか。せ~の~」などと無粋なかけ声は一切言わず、斜め3度ぐらい視線をずらして穏やかに無音のまま口を動かしている姿が見える。俳優達も全身で飛び込んでしまう。その姿には恍惚感さえ感じる。
ああ、これが夜の樹の「何か=色気」なのかな? ずるいな。私を置き去りじゃ無いか。さっきまで傍観者として他人の暗闇をのぞき見していたのに、いつの間にか同伴者気分になっていた自分に気がつく。いつも、夜の樹だけがあっちの世界に消えていく。
今年も夜の樹の季節だ。和田氏も俳優達も身投げ覚悟で出を待っている。
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